
- 熊本城を築いたのは戦国武将・加藤清正(1601年~1608年)
- 賤ヶ岳七本槍の一人で、豊臣秀吉の下で築城術を習得
- 清正流石垣「武者返し」など独自の築城技術を確立
- 120の井戸や食糧備蓄など、籠城戦を想定した設計
- 西南戦争で西郷隆盛も落とせなかった堅牢さを証明
- 現在も「清正公さん」として熊本の人々に慕われる
熊本城を作ったのは加藤清正
熊本城を築いたのは、加藤清正です。
慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけて、茶臼山と呼ばれた台地に当時の最先端技術と労力を投じて完成させました。
この名城は、日本三名城の一つに数えられ、現在でも熊本のシンボルとして多くの人々に愛されています。
加藤清正とはどんな人物か
加藤清正は、1562年(永禄5年)6月24日に尾張国で生まれた戦国武将です。
豊臣秀吉の遠縁にあたり、幼少時から秀吉の小姓として仕えました。

武将としての活躍
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで、清正は柴田軍に真っ先に突撃し大活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人として称えられました。
この戦功により、清正は一介の兵士から大名へと成り上がります。
九州征伐の後、肥後北半国195000石を与えられ、28歳という若さで大名となりました。
朝鮮出兵では虎を退治したという武勇伝も残されており、武闘派の印象が強い武将でした。
築城の名手としての才能
清正が築城の名手となった背景には、豊臣秀吉の影響が大きくありました。
秀吉が長浜城を築いた頃から天下統一に至るまで、その城づくりを間近で見てきた清正は、
秀吉の築城術をベースにしながら、自らの戦での体験を活かした独自の城づくりを習得していきました。
清正は熊本城以外にも、名護屋城、江戸城、名古屋城など数多くの城の築城に携わっています。
藤堂高虎、黒田官兵衛と並ぶ築城名人として、その名を知られています。
熊本城の特徴と魅力
難攻不落の要塞
熊本城は実戦経験が豊富な加藤清正が築いただけあり、高い防衛力を備えた要塞となっています。
北、東、南側は高い石垣が築いてあり、敵の侵入を許しません。
西側には幅10メートル以上の堀が設置され、その内側には五階建ての櫓が立っていました。
清正流石垣の技術
熊本城には「清正流石垣」と呼ばれる石垣があり、下部から上部にいくほど急になっていく反りが付いています。
下部の緩い勾配が上に行くにつれて急勾配となる「扇の勾配」という積み方は「武者返し」とも呼ばれ、敵の侵入を防ぐ効果がありました。
籠城戦を想定した設計
城内には120もの井戸が掘られ、壁にかんぴょう、畳に芋の蔓を編み込むなど、
食糧に困ったときのために城の一部を保存がきく食糧に変えたと言われています。
さらに、複雑な通路で敵を誘い込み、味方が集中的に効率よく攻撃できる設計になっていました。
西南戦争で証明された堅牢さ
明治10年(1877年)の西南戦争で、熊本城は薩摩軍13000人を相手に50日あまりの籠城戦の舞台となりました。
西郷隆盛率いる薩摩軍は約2ヵ月かけても落城させることができませんでした。
その堅牢さに、西郷隆盛は「私は政府軍に負けたのではない。
この城を築いた加藤清正公に負けたのだ」と語ったとされています。
築城から約270年後、近代戦においても熊本城の防御力は証明されたのです。
加藤清正の晩年と熊本城のその後
1611年5月、二条城で行われた秀頼と家康の会見に立ち会った清正は、
熊本城への帰りの船で突如発病し、帰らぬ人となりました。享年50歳でした。
清正の死後、子の加藤忠広が熊本城主となりましたが、幕府への謀反の嫌疑をかけられ、加藤氏は寛永9年(1632年)に改易となりました。
その後は幕末に至るまで、細川氏が熊本城の城主となりました。
それでも、熊本城の基礎を築いたのは加藤清正であり、また治水にも尽力していたことから、
現在でも清正は「清正公(せいしょうこう)」と呼ばれ、人々に慕われています。
熊本城の現在
西南戦争直前の火災によって天守を含め多くの建物を焼失しましたが、
昭和35年(1960年)に市民からの寄附金も受けながら天守が再建されました。
平成28年熊本地震で被災しましたが、震災復興のシンボルとして最優先で復旧作業が進められ、
令和3年(2021年)3月に天守閣が完全復旧しました。
新たな天守閣は最新技術による耐震補強やバリアフリーが取り入れられ、
より安全で魅力的に生まれ変わりました。
名城の見どころ
熊本城最大の特徴は、清正が考案した「武者返し」と呼ばれる石垣です。
敵の侵入を防ぐため、扇のように反り返った急勾配の石垣は、忍者さえ登れないほどの設計となっています。
特に宇土櫓の高石垣は圧巻です。盛り土、栗石、築石という3重構造により、水はけが良く耐久性に優れた造りになっています。
震度7の揺れにも一部が耐えたのは、この技術の賜物といえるでしょう。
2021年に復旧が完了した天守閣は、地下1階から6階まで見学可能です。
最新のデジタル技術を駆使した展示で、築城の歴史や震災の被害と復旧の過程を学べます。
最上階の展望フロアからは、熊本市街を一望できます。
アクセス情報
電車
- JR熊本駅から熊本都市バスで蔚山町まで6駅
- そこから徒歩約700m
車
- 九州縦貫自動車道・北熊本スマートICから約20分
- 国道387号線、県道303号線経由
駐車場
- 熊本城二の丸駐車場:最初の2時間200円
- お城前駐車場:最初の1時間300円(24時間営業)
- 城彩苑駐車場:2時間200円

熊本城の総括
熊本城を作ったのは加藤清正であり、彼は豊臣秀吉の下で築城術を学び、
自らの戦闘経験を活かして日本を代表する名城を築き上げました。
清正流石垣や籠城戦を想定した設計など、その技術は400年以上経った今も色褪せることなく、多くの人々を魅了し続けています。
武勇に優れた武将でありながら、築城、治水、経済発展にも尽力した加藤清正。
その功績は熊本城という形で今も受け継がれ、「清正公さん」として熊本の人々に愛され続けています。
記事の要点まとめ
- 熊本城を築いたのは加藤清正で、1601年から7年かけて完成させた
- 清正は1562年生まれの戦国武将で、豊臣秀吉の遠縁として仕えた
- 賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳七本槍」の一人となり、28歳で大名に
- 豊臣秀吉の築城術を学び、実戦経験を活かした独自の城づくりを確立
- 熊本城以外にも名護屋城、江戸城、名古屋城などの築城に携わった
- 「清正流石垣」は下から上へ急勾配となる「武者返し」で敵の侵入を防ぐ
- 城内に120の井戸を掘り、壁や畳に食糧を編み込む籠城対策を施した
- 西南戦争で薩摩軍13000人の攻撃を50日以上耐え、堅牢さを証明
- 西郷隆盛が「加藤清正公に負けた」と語ったとされる
- 清正は1611年に50歳で死去、その後加藤氏は1632年に改易
- 西南戦争で天守を焼失したが、1960年に市民の寄附で再建
- 2016年の熊本地震で被災したが、2021年に最新技術で完全復旧
